世の男性たちを虜(とりこ)にしてきたエロスの女王・壇蜜さん。
そんな壇蜜さんが電撃結婚を果たしましたね!
そのイメージから会社経営者などと結婚しそうですが、お相手はめちゃくちゃ意外な『漫画家』という事にも話題になっています。
今回は、そんな壇蜜さんの結婚相手である漫画家・清野とおるってどんな人?という内容について詳しくお伝えしていきたいと思います。
目次
壇蜜の旦那(夫)の漫画家・清野とおる
プロフィール
名前:清野 とおる
本名:清野 通
生年月日:1980年3月24日
職業:漫画家
出身:東京都板橋区志村
趣味:徘徊・尾行・貸本漫画の収集
1998年、ヤングマガジン増刊青BUTA掲載の『アニキの季節』でデビュー。
その後『青春ヒヒヒ』『ハラハラドキドキ』をヤングジャンプで連載。代表作は『東京都北区赤羽』。
『ウヒョッ! 東京都北区赤羽』、『Love&Peace〜清野とおるのフツウの日々〜』、『 清野とおるのデス散歩』が同時発売され、漫画家としてげんざいも
『赤羽』をモチーフにした漫画で大ブレイク
清野とおるさんと言えば、『東京都北区赤羽』という東京都の北区赤羽をモチーフにしたシュールな人間観察漫画が代表作。
赤羽駅前の文教堂赤羽店では、6年連続で『東京都北区赤羽』が漫画の売り上げ1位。1店舗で2万冊も出ているそうです。
「赤羽では『ONE PIECE』より売れている漫画」として有名だといいます。
あの堀江貴文さんも絶賛しており、何とも獄中でハマってしまったのだとか(笑)
堀江さんいわく、読めば読むほどジワジワくるスルメのような漫画のようです。
堀江:いつも漫画を差し入れられるんです。僕、その中から面白そうな奴をピックアップして読んでるんですけど、この内容がすごいところにひっかかったんですよね。これはおもしれぇなぁと。やっぱり、ビジュアルがインパクトあるし。ハズレ引いちゃうと「あぁ、ハズレ引いちゃった」みたいな。あと、読み応えって結構大事で。さくさく読める漫画だと、それはそれで良くないんですよ。地味にジワジワ読めるスルメみたいなタイプの漫画が良いですね。
普段はかなり物静かなキャラクター
気になる清野とおるさんのキャラクターですが、一体どんな人物なのか?
作中に登場する清野本人は好青年風のキャラクターとして描かれていますが….
友人の漫画家・まんきつさん曰く、「実際の清野氏は口数も少なく陰惨なオーラを放っている」、「清野氏が輝く瞬間は面白い街人に会った時だけ」、「普段は目もあてられないほど陰鬱な男で、清野氏の描くキャラクターとは対照的」
そんなことを語っているほど、普段はかなり物静かな男性のようですね(笑)
少し失礼を承知で書いてしまいますが、イメージ通りと言えばイメージ通りかな〜と思います(ずっとマスクもしていますしw)
しかし、そんなもの静かで寡黙なキャラクターがシュールで面白い着眼点や鋭い観察力を生み出しているのでしょうね。
壇蜜の旦那(夫)の漫画家・清野とおるの半生
東京生まれのごく普通の少年だった
東京都板橋区の住宅街で生まれ育ったという清野とおるさん。
1980年代生まれの清野とおるさんはその時代に流行ったビックリマンチョコのシール集めなど、少年がやったような遊びは一通りするようなごく普通の少年だったそう。
また、友達もたくさんいて、勉強もほとんどせず、駄菓子屋に売っていたかんしゃく玉や爆竹を歩道橋からまいて爆発させたり、いたずらっ子な面もあり、かなり自由奔放な子供時代を送っていたみたいです。
板橋区で生まれ育った清野とおるさんは、迷子になる事を何よりも恐れていたといい、いつも遊びに行くのは自宅から数百メートル圏内だったと語っています。
後に自分の人生を変える事になる、赤羽までは自転車で15分くらいの距離だったそう。
しかし、それでも遊びにいくことはほとんどなかったといいますが、まさかそんな近所に存在する『赤羽』がそんな大人になって自分の人生に大きく関わってくるとはこの頃には夢にも思わなかったことでしょうね。
小学生で伯父から漫画を教わる
また、清野とおるさんが漫画に目覚めたきっかけは父親の兄である伯父の影響だそう。
当時の実家には伯父も同居していたそうで、その漫画の仕事をしていたため、お願いして絵を描いてもらった中で、それと同時に漫画の描き方のイロハも教えてもらい、漫画を書いていた清野とおるさん。
また、伯父は両親が買ってくれないファミコン(ファミリーコンピュータ)を買ってくれるなど子供に理解のある人だったので、しょっちゅう部屋を訪れていたみたいで、この伯父の存在は清野とおるさんにとって第二の父親のような存在なのでしょうね。
「伯父には漫画の描き方のイロハも教えてもらいました。集中線の描き方や、定規の下に10円玉を貼って線を引くと、インクがにじまない、とかですね。子供の頃に、漫画のテクニックを学べたのはラッキーでしたね。
ちなみに伯父は今も元気です」
高校生で漫画家デビュー
高校に入ると、ますます漫画家として本格的に活動を始めました。
清野とおるさんの名前が初めて世に出たのが雑誌『宝島』から連載されていた『VOW』という読者投稿コーナーでした。
街で見つけた変なもの、新聞などの誤植などを取り上げる、面白コーナーを漫画にするというもので、この作品が自身の初掲載作品となり、自分の作品が認められる事に対しての面白さを知り、ますます漫画にのめり込んでいくことになりました。
「『VOW』にはとても影響を受けてますね。僕の名前が初めて世に出たのが『VOW』でした。雑誌『宝島』のコーナーに載りましたし、単行本にも掲載されました。
投稿すればこうやって認められるんだって理解しました」
また、当時中学1、2年の頃に大竹まことさんと相原勇さん、舛添要一さんの3人でやっていた、街にあるちょっと変わった看板や、ちょっと変わった人とかに突撃取材するなど・・・
ちょっと変わった角度から取り上げる感じのテレビ番組『何だ?こりゃ』(フジテレビ)に大きな影響を受けたと語る清野とおるさん。
この『VOW』も同じように街で見つけた変なものを投稿する面白コーナーですし、『観察芸』を漫画の軸にする清野とおるさんにとって『何だ?こりゃ』は今後の漫画の方向性を決める上での原点とも言えるのではないでしょうか。
清野とおるさんの処女作は『猿』というタイトルの作品。
中学校に猿が転校してきた猿か人間なのか判別が微妙な存在のキャラクターがで、クラスメイトはどう接していいかわからなくて戸惑う、というシュールなギャグ漫画だったそう。
1番下の賞を取ることができて賞金をもらうことができたそうなので、担当編集者がついたそうなのですが、そもそも応募した動機は完全に賞金目的だったそうでこの時はまだ漫画家になるとは思っていなかったみたいです。
しかし、処女作でいきなり有名な雑誌で賞金を取るほどの作品を作る事ができたのは、才能がかなりあったのでしょうね。
そしてその後、1998年『ヤングマガジン増刊青BUTA』(講談社)にて『アニキの季節』が掲載され、高校3年生で漫画家としてデビュー。
漫画家への道を本格的に志す事になります。
大学時代に連載開始
「単純に猶予期間が欲しかった」こう語る清野とおるさん。
高校を卒業し、大学に通いながら漫画家への道を目指します。
大学ではサークルやゼミには入らず、友達もまったくいなかったそうで、大学1~2年の時にとにかく漫画を描いて、『ヤングジャンプ』(集英社)に投稿しまくったそう。
その結果、大学3年の時にヤングジャンプで『青春ヒヒヒ』の連載が決まりました。
当時、世の中の不条理を描く路線の漫画が世間に受けていたそうで、デビューした後は、自身も不条理ギャグでいくんだと思っていたそう。
連載が始まったのは2001年、大学4年の秋だったそうですが、連載は長続きせず単行本2冊分で打ち切りになってしまった。
ドン底の20代半ば〜20後半
その後も、不条理ギャグでいくんだと思って 、そればっかり描いてたんですけど 。 全然通らなかったようで・・・
それまでは、ヤングジャンプで腹に人面瘡が宿った高校生男女が主人公という、『ハラハラドキドキ』というシュールなギャグ漫画が連載されるもすぐに打ち切りに。
ヤングジャンプの専属契約は何とか残っていたので、何とか食いつなぐ事ができていましたが、2006年の26歳の頃にその契約も切れてしまいました。
本人は、連載を1回でもできたら、その後もずっと漫画家としてやっていけるもんだと勘違いしていたそうですが、打ち切られたときには既に大学も卒業。
無職の状態で急にポーンと社会に放り出されて、『うわ、やべえ!! なんにもないじゃん!!』と本人もかなり焦ったそう。
完全に職が途絶えてオリジン弁当で27歳から30歳くらいまでオリジン弁当のバイトで食いつないでいたようです。
その間も、漫画の仕事に携わりますが、漫画専門誌以外の雑誌に漫画を描くのは、“横道にそれる”というイメージがあったそうなのですが、そうも言っていられない状態。当時やった仕事の中には、屈辱的な気分になるものもあったそう。
本人曰く、『ハラハラドキドキ』が終了した2003年、から『東京都北区赤羽』の連載が始まったのが2008年。この間の5年間が、漫画家人生の中で最も苦しい時期だったといいます。
『東京都北区赤羽』の連載で一躍有名に
転機は、一人暮らしを始めた27歳の頃。
それまでは実家暮らしでしたが、スランプに陥り連載を失い板橋区の実家にいるのはいたたまれなくなったと語る清野とおるさん。1人暮らしをするために赤羽に引っ越しました。
しかし、そんな赤羽への引っ越しが清野とおるさんの人生を大きく変える事になります。
その赤羽でのプライベートで出会った面白い人達や、その体験を題材に漫画を書いてみたところ、携帯サイト『ケータイまんが王国』で連載が決定。
単行本8冊を刊行し20万部以上を売り上げ、次々に増刷が決まるようになりました。
その後、NHKなどさまざまな番組で特集を組まれ、一躍『清野とおる』の名が世に知られるようになりました。
「プライベートで出会った、赤羽の街にいる常軌を逸した人たちを見ていると『自分が描いてる漫画よりもよっぽど面白いじゃないか』とも思いました。
つまり『創作漫画ダメかも?』と『赤羽はネタになるかも?』と思う時期がたまたま重なったんですね。
とにかく現実の赤羽を舞台にした漫画を描いてみました」
漫画『東京都北区赤羽』はドラマ化も
また、この勢いは止まる事を知らず、この漫画は実写化され、俳優の山田孝之さんが演じる『山田孝之の東京都北区赤羽』としてテレビドラマ化されました。
この清野とおるの漫画によって、自身の漫画家としてのキャリアだけではなく、あまり普段は東京でもスポットの当たる事のない『赤羽』という街を全国にPRする役割を担う形になりました。
ある意味、普段東京でもスポットの当たりづらい『赤羽』という街に世間の関心を向けたこのドラマ化は清野とおるさんにとって赤羽という街への恩返しになったのかもしれませんね。
清野とおるの人生は『赤羽』と一蓮托生の人生かもしれない
『赤羽』という街をモチーフに漫画を描いた事で一気に漫画家としての人生が好転。
ある意味、『赤羽』という街に助けられた清野とおるさんの漫画化人生。
しかし、清野とおるが有名になればなるほど同時に『赤羽』という街も有名になる。
いわば、清野とおるさんと『赤羽』という街はこれからも切っては切り離せない存在。
いわば運命共同体のようなものではないでしょうか。
清野とおるさんが赤羽という街を漫画を通して発信し続け赤羽も有名になり賑わう。
そんな相乗効果をもっと見続けていきたいですし、そう願うばかりです。
これからのご活躍も楽しみにしています!