ラグビー日本代表のチーム一の点取り屋・福岡堅樹。
50m5.8秒の俊足に、その点を取る嗅覚はまさに天性の才能。
そして、そんな福岡堅樹選手にはもう一つ天から与えられた才能があります。
それが、「類稀なる頭脳」
アスリートとしてだけでなく、学生時代から学業も優秀。
それでいて、大学時代は筑波大に進学し、現在もアスリートと並行し医学部を目指しています。
今回は、そんな福岡堅樹選手の医学部の進学話や、医者一家である実家の話。
これらを詳しくご紹介したいと思います。
目次
日本が誇るスピードスター福岡堅樹
プロフィール
名前:福岡 堅樹(ふくおかけんき)
生年月日:1992年9月7日
出身:福岡県古賀市
身長:175cm
体重:83 kg
学歴:福岡高校〜筑波大学
所属:パナソニック(2016年5月)〜、 サンウルブズ(2016年11月)
チーム一の俊足で点取り屋
日本が世界に誇る韋駄天で、そのスピードは世界トップクラスのWTB。
2016年夏のリオデジャネイロ五輪を経験した唯一の選手で、現在ではジェイミー・ジャパンのエース。
5歳から玄海ジュニアラグビークラブでラグビーを始め、福岡高校3年時に全国高校大会(花園)に出場。
大学2年時に日本代表に招集され、秋のスコットランド代表戦で2トライ。スターダムにのし上がりました。
50mは5.8秒と日本記録に匹敵するほどの早さだけでなく、走り始めてトップスピードに乗るまでの時間も短く、その脚力と瞬発力にあの元監督のエディー・ジョーンズには「チーターよりも早い」と言わしめるほど。
同じチームの点取り屋の松島幸太朗にも「僕の中のフェラーリは福岡堅樹です」そう評されるほど、チームメイト共に認めるその俊足。
現在の現役の日本代表チームで最多トライの記録を持つ、チーム一の点取り屋です。
福岡堅樹は元々は医師を目指すために筑波大医学部を受験
学生時代から学業は超優秀
幼い頃から学業が優秀だった福岡堅樹選手。
「家で勉強していた時間はほとんどなかった」そんなことを父親の綱二郎さんも語るほど、時間の使い方が相当上手だったそうです。
この要領の良さも、福岡堅樹選手が学業が優秀だった理由だけでなく、のラグビーと学業を上手く両立できた秘訣でしょうね。
「幼い頃から少ない時間を有効に使うことが上手でした。家では全然勉強していませんでしたね。中学になると塾にも行き始めましたが、塾で勉強していただけで、家ではしていなかったと思います」
幼少期の当時の様子を父の綱二郎さんは語っていますが、幼少期からその理解力はずば抜けていたそうで、努力以外にも、勉強する才能に恵まれていたのでしょうね。
綱二郎さんによると、堅樹は幼い頃から利発な子供だったという。
「お風呂の中ではよく堅樹に計算問題を問いかけていたんですが、とにかく理解が早かったですね。最初はできなくても、一度説明するとすぐに理解して、次に問題を出すとパッと答えることができていました。そういった理解力は小学校低学年の頃から長けていたと思います」
中学生の時はラグビーで上を目指そうとは思っていなかったと語る福岡堅樹選手。
いくつかの高校から誘いがあったそうですが、開業医の祖父の影響で医学部に行きたい。
そう思っていたそうで、学業にも専念できるように、高校は県内でも有数の進学校である文武両道の県立福岡高校に進みました。
一浪し医学部は落ちたものの筑波大の違う学部に進学
志望校は国立大の医学部を考えていた福岡堅樹選手。
しかし、教育実習で来た先輩が筑波のラグビー部に入部しており、その様子が楽しそうだったそうで、強いだけでなく、雰囲気も良さそう。そして、医学部もあり、全ての目的が満たせる。
そんな風に考えた福岡堅樹選手は医学部でも筑波大学の医学部にこだわり受験を受ける事にしました。
しかし、花園が決まった3年生の秋の時点で、授業の範囲しか勉強をしておらず、センター試験は医学(筑波大は医学群)の基準に全然足りないだけでなく2次試験も、解けないという感じではなかったけど、点数が足りなかった。
後にそう語る福岡堅樹選手は現役での筑波大学医学部合格は諦めていました。
次に「2浪してしまったら」という選択肢。2年間、体を動かさない状態になってしまうと、第一線でプレーする身体に戻すのは厳しい。「ラグビーを本気でしたいなら、ラグビーに集中するしかない」。結果、筑波大の別の学群を受けることに決めました。
両親も「ラグビーを引退した時点で、医学の道に進みたいと思っているならサポートする」と言ってくれました。前期試験は数学で失敗し、医学群の合格には届きませんでしたが、後期試験で情報学群に入学することができました。
そんな中迎えたセンター試験では、3通りの選択肢があったと言います。
一つ目は、筑波の医学の合格をひたすら目指す事。
二つ目は、レベルを下げて他の国立大学の医学部を目指す事。
3つ目は、他の学部でも、とにかく筑波にこだわり合格を目指す事。
「ラグビーで自分はもっと上にいける」そんな思いがこの時期あったと語る福岡堅樹選手。
そんな思いがあったので、予備校の先生からは「筑波にこだわらなければ、ほかの国立大の医学部は大丈夫」
そんな事を言われていたそうですが、筑波以外の大学を志望する選択肢を選ぶ事はラグビーを諦めることに等しい選択でした。
一つ目の選択肢が一番全ての夢を叶える事ができる選択肢。
しかし、それに失敗してしまうと、「2浪」ということになります。
2年間、体を動かさない状態になってしまうと、第一線でプレーする身体に戻すのは厳しい。
そんなことは、実感していた福岡堅樹選手。
そんな時に、福岡堅樹選手の心の中にあったのが、「一番、後悔のない道を選ぼう」ということでした。
そう考えた時、最も後悔すると思ったのが、ラグビーを捨てる選択。結果、筑波大の別の学群を受けることに決めました。
医者はいつでも目指す事ができるが、ラグビーの日本代表は今しか目指す事ができない。
そんな思いがあったそうで、「ラグビーを引退した時点で、医学の道に進みたいと思っているならサポートする」
こういう両親のサポートも約束してくれたことも後押しし、医者の夢は一旦封印しまずはラグビーで日本代表を目指す。
そのために、とにかく筑波でラグビーを続ける。
このように、進路の方向性を決断しました。
学生時代の怪我の影響も医師を目指すきっかけに
また、医師を目指すきっかけのもう一つに、高校時代に両膝の手術を受けた「まえだ整形外科 博多ひざスポーツクリニック」院長の前田朗氏。この先生の影響もあると福岡堅樹選手は語ります。
高2の夏合宿で左膝の前十字靱帯を断裂。
「リハビリをしっかりすれば前と同じスピードに戻る」という前田の言葉を励みにリハビリに励みましたが、その2ヶ月後にまた同じ箇所を怪我してしまいました。
そんな時に、何事にも明るく、ポジティブに考えさせてくれる人で、「この先生の言う通りにすれば、しっかり復帰できる」と信じさせてくれる温かさがあり、そんな影響から、より医師を目指す気持ちが強くなったそう。
そして、スポーツ整形の医師を目指し、日本代表のチームドクターになりたいようです。
「元代表選手の肩書きを生かしたドクターになれば、これほど説得力のあるドクターはいないと思うので、いいなと思っています」そんなことも福岡堅樹選手は語ります。
「あの時、花園のピッチに立てていなければ、今の自分は間違いなくない。前田先生が選択肢を与えてくれなければ、代表になりたいと思うこともなかった。医学の中でスポーツ整形を目指そうと思ったのも先生の影響。けがをした不安の中、この人の言うとおりにすれば戻れるという雰囲気、安心感を感じた。W杯で活躍し、いつかは前田先生のような医師になりたい」
福岡堅樹の実家は医者一家
福岡家は、父が歯科医、祖父が内科医という医師一家。
福岡堅樹選手が日本代表を目指そうと思い始めたきっかけには、この祖父である崎村正弘さん(82)の影響が非常に大きかったと言います。
父親は歯科医で教育方針も素晴らしい
父親の綱二郎さんは福岡県古賀市にある福岡歯科医院で歯科医さんです。
上の画像は、綱二郎さんと母親ののぶさん。
どちらかというと、福岡堅樹選手は母親にでしょうか。
そして、父親の綱二郎さんの教育方針も素晴らしく、息子に一度も医者になることを強要したことはなかったと言います。
こういう医師家系の子供は親に子供の頃から強制的に医者を目指すように仕向けたり、無言の圧力なんかをやってしまいがちですが、そんなのびのびと自由に進路決定をさせてきたことが、福岡堅樹選手の強い責任感を自主性を育てる要因なのでしょうね。
「“医者になれ”とは一度も言ったことはありません。もちろん、歯医者になれ、とも。どんな職業に就こうが、本人がやりたいことを見つければいいと思っていたので」
また、教育方針で重視していたことは「彼らの選択や決断を最大限に尊重すること」だと語っており、そうすることで、自分の意思決定に責任を持ち、人のせいにもしないからだそう。
そして、その選択肢を広げるため、幼い頃からスイミング、ラグビー、ピアノ、習字など、様々なおけいこごとをさせるなど、可能性を広げる試みは惜しまなかったといいます。
そして、「英才教育というよりは、きっかけ作り」そんなことを語る父親の綱二郎さん。
幼少期から、色んな習い事挑戦させ、色んなことに興味を持たせてあげたと言います。
「何かを決断するときは必ず自分で決めさせるようにしていました。もし、人に何かを言われて決めてうまくいかなかったら、絶対に人のせいにしてしまいますからね。もちろん相談されれば意見は述べますが、最終的に決めるのは自分だよ、といつも言っていましたね。進学に関しても、そんな感じだったと思います」(綱二郎さん)
祖父は地元では有名なお医者さん
そして、福岡堅樹選手が医者を目指す最も大きなきっかけとなった人物がこの祖父の崎村正弘さんです。
2019年で82歳になられるそうでかなり高齢のでお医者さんを頑張っておられるようですね。
この崎村正弘さんは循環器内科・胃腸内科を専門とする内科先生のようで、福岡県でも有名な先生のようです。
そして、この祖父から言われた「才能を持って生まれてきた人間は、それを社会に還元する責任がある」
この言葉が福岡堅樹選手の信念として支えているようで、こういった思いが福岡堅樹選手の医師を目指す原動力となっているようですね。
この祖父の教えはイギリスでよくいう『ノーブレス・オブリージュ(noblesse oblige)』という恵まれた才能と環境に生まれた真のエリートは率先して社会への責任を果たす義務がある。
つまり、「高貴さは(義務を)強制する」を意味し、一般的に財産、権力、社会的地位の保持には義務が伴うことを指す考え。
そんな考えを元にある教えのようで、裕福で運動神経にも恵まれている福岡堅樹選手。
そんな環境と才能に驕ることなく、その教えを実践しようとする福岡堅樹選手の考え。
まさに、能力だけでなく、思考・行動力も一流と言えるのではないでしょうか。
心に残る祖父のコトバがある。「偉そうに聞こえてしまうニュアンスがあるので」と口にするのをはばかったが、しつこく聞けば、小声でこう、明かした。
「『能力を持って生まれてきた人間は必ず、その能力を社会に還元しないといけない』というコトバです。“オマエには(スポーツと学問)どちらもやれる力があるのだから、それを社会に還元しなさい”と」
福岡堅樹は2020年以降は医学部を目指すためにラグビーを引退
そして、驚く事には医学部を目指し、医師になるという計画は遠い未来の話ではなく、本人曰く「2020年の東京オリンピックを境に選手は引退する」そんなことをすでに公言されています。
ラグビーファンとしては、なんとももったいない気持ちと喪失感がすごいかと思いますが、本人としてはきっぱりとラグビー辞め、勉強に専念する準備は着々と整っているようですね。
現役真っ最中の現在も、コツコツとまずは筑波大学の医学部の受験に備え、その受験勉強を怠らずに日々努力されています。
トップアスリートでありながら、医学部受験生。
まさに漫画の受験生のようなスーパーマン。
しかし、世界の舞台で活躍したスポーツ選手が医師に転向するケースは、ほとんどいない今の世の中で、そのような境遇の人たちのパイオニアになりたい。
そんな思いもあるようで、この福岡堅樹選手の挑戦は自身のためでもあり、未来の若者に大きな影響を与えるかもしれない挑戦にもなりそうです。
優しさを秘めた祖父のような医者という目標に加え、アスリートの治療に携わる場合には、自身の経験を踏まえ「選手目線で、(故障した選手から)信頼を得られるドクター」との理想像も抱く。
そんな2つの夢を追いかける若者。
この挑戦はラグビー界だけでなく、アスリート界にとっても大きな意味があり影響を与えるかもしれませんね。
そんな「不可能を可能にする男 福岡堅樹」から目が離せませんね!